LOGIN――恋した少女は、呪われた人殺しの魔女。 ロシアからの帰国子女、上城春咲(かみじょうすざく)は盛夏に眠り姫と恋をした。 秋になり上城はあのときの少女、鈴代泉観(すずしろいずみ)と邂逅する。だが、彼女は眠り姫ではなく級友たちに畏怖されている魔女だった。 ある放課後。上城は豊(ゆたか)という少女から、半年前に起きた転落事故の現場に鈴代が居合わせたことを知る。彼女は人殺しだから関わるなと憎らしげに言われ、上城は余計に鈴代のことが気になってしまう。 そして、鈴代の目の前で、父親の殺人未遂事件が起こる…… ――呪いを解くのと、謎を解くのは似ている? 初々しく危うい恋人たちによる謎解きの物語、ここに開幕――!
View More濃いグリーンのブレザーを身に纏った少年は、死体を見つけたのかと思った。
* * * 伽羅色の煉瓦が敷き詰められた学園の裏庭を慣れない革靴で、コツコツ、地面を鳴らしながら、歩く。 七月、期末試験を終えたからか、周囲はがらんと静まりかえっている。そういえば、終業式は一週間後だったかなぁと、他人事のように首を傾げ、事務室をあとにして…… 迷った。 きょろきょろ、周囲を見まわす。駅に向かう西門を探していたのに、少年が発見したのは。 うっそうと繁ったヒースの森の中、羽毛のような手入れの行き届いた黄緑の芝生の上で横たわっている少女。 黒いセーラー服、雪のように仄白い透き通った肌、無造作にのばしっぱなしの黒髪。顔色が蒼白いからか、死体のようにも見える。が。 耳をそばだてると、すぅすぅ、小さな寝息が聞こえる。どうやら眠っているらしい。 少女のあどけない寝顔に、なぜか、惹かれる。 かわいい、美しいという言葉よりも先に、綺麗、という言葉が出てくる。例えるなら、天使というには美しすぎて、女神というには幼すぎる。要するに、人並みはずれた顔立ちをしているのだ、彼の前で無防備に眠っている少女は。 まさに、おとぎ話にでてくるような、眠り姫、だ。 魅入っていた少年を我に却らせたのは、その少女の「うーん」という鈴の鳴るようなか細い声。誰かが近くにいる気配に感づいたのか、少女は、ぱちくり、瞳を見開く。「あ」
二人の視線が、絡まる。同時に、思いがけず口を開く。驚きを露見させて。
どちらからともなく互いの頬に、さっ、と朱が走る。 やがて少女は、じっ、と少年を見つめ、一言、歌うように。「編入生、ね」
まるで、そこに彼が来ることを予知していたかのように、呟く。
瞳を見開いた少女に圧倒されて、少年は無言で肯定する。吸い込まれるような、漆黒の瞳は、まるで新月の夜空のよう。 そして、澄んだ空に溶け込むような落ち着いた声色に。起き上がり、俯く仕草に。引き寄せられる。無言でいる少年に対して、少女は再び口を開く。淋しそうに。まるで何かを諦めてしまったかのように。「もう、そんな時期なの……」
哀しそうにひとりごちる少女に、少年はいてもたってもいられなくなる。そのまま、黙り込んだまま、二人は見つめ合う。鼓動が早まる。少女が懇願するような瞳を向ける。
……どうして、そんな眼で俺を見る? 少年に助けを求めるように、瞳潤ませる少女。これ以上、見つめていたら狂いそうだ。心拍音のざわめき、今にも緊張で止まりそうな呼吸、全てを断ち切るように。「っ」
最初は触れるか触れないかわからないくらいに。少女が抵抗しないのを見て更に。
長い。長くて静謐な、それでいて濃厚な、キスをした。 誰にも渡したくない。それが、少年が少女に抱いた第一の感情、だったから。 * * * 欲しい。 自分の心の奥底に、こんなに淫らな感情が潜んでいるなんて考えられないまま、少女は少年の唇に舌を差し込む。熱い。舌を絡めたまま、閉じていた目蓋を開く。榛色の瞳が、少女の漆黒の瞳を見つける。驚きを隠さずに。甘い。やがて、どちらからともなく唇を離し、無言で見つめ合う。少女はきょとんとした表情を見せ、やがて上品に笑む。「ル・カバリェ・ア・ジュヌ・エ・ルメルシェ・ヴォ・ダーム?」
「そういうこと言うと、また口塞ぐぞ」 「それは困りましたね」ちっとも困ってなさそうな少女の表情を見て、少年は苦笑する。
「なんでロシア語で言うかな」
「あなたがロシアからの転入生だって知っていたから」それは困った、と呟く少年の表情を見て、ちっとも困ってないと感じた少女はどうすれば彼を困らせられるか考える。そして即座に答えを導く。
「それとも、謎は謎のままで取っておいた方がいいのかしら?」
「貴女がそう望むなら」しくじった、と思った。少年は勝ち誇った表情で、少女の唇を優しく、奪う。
顔を真っ赤にした少女を満足そうに見つめて、囁く。「眠り姫のお嬢さんに、目覚めのくちづけは不要かい?」
「彼方は謎解きがお好きなようね。答えなどわかりきっているくせに」戸惑いを隠して、少女は少年の唇に自分の人差し指を乗せる。そしてそのまま、呼ぶ。
「もっと」
求める。
ついばむように繰り返す。学校の裏庭で。初めて知り合ったばかりの異性と。 磁石が引き合うように、貪りあうように。二人、とろけるようなキスを、続ける。手品を終えたマジシャンは、優雅にステージを去っていく。犯人を暴いた探偵は。 * * * 「カミジョ?」 鈴代が目覚めたとき、すべてが終わっていた。 上城は、まるで泣いているように見えた。「……なんで、シャスリーヴァなんて言うかな」 夕凪が、最期に叫んだ言葉が脳裡から離れない。 鈴代は何も言わずに上城の肩を抱く。ぽんぽんと、背中を優しくさする。「夕凪は、どうして“ただの針”を、わたしに刺したのかしら?」 鈴代が毒によって気を失ったとは、誰も言っていない。鈴代の首筋を刺した針には、毒が塗られていなかった。上城も、それには気づいていた。 夕凪は、左手で鈴代の首筋に針を刺す動作をしながら、右手で鳩尾を抉っただけだったのだから。 だが、平井が調べたところ、夕凪がポケットの中の裁縫箱に保持していた針には、微量のサキトキシンが検出されている。米国で生物兵器として研究された猛毒物質だ。緑子はこの毒に倒れたのだろう。「たぶん、夕凪は最初から、スズシロを殺すつもりがなかったんだよ」 「……そんな」 でも、紛れもなく殺意を受けていたと、鈴代は上城に抗議する。「憎しみと愛が紙一重で、みんながみんな嘘つきで天邪鬼だってことに気づいていて、まだそんなことを言うんだ?」 夕凪は、母親違いの姉に、自分の死に様を見せたくなかっただけだと、上城は語る。「不器用、ね」 嘘つきと天邪鬼、そして不器用な人間たちがそれぞれ無意識のうちに事件の背景を生み出していた。夕凪は、そんな歪んだ世界の犠牲者だったのかもしれない。 母親が異なるだけ。もしかしたら自分が本物の魔女になっていたかもしれない。夕凪はそれを知っていたから、殺さなかったのかもしれない。だから。「……シャスリーヴァって、言ったんだ」 ――さよなら、お幸せに! これから自殺する人間が口にする言葉か? 鈴代は泣き笑いを浮かべる。上城も、頷く。 そして二人は何も言わずに唇を寄せる。 * * * 初夏の蕩けるような時間の中で、春を呼ぶ少年と少女は、出逢う。 イリュージョンは、眠ったままの沈丁花に囚われたお姫様。 季節の揺らぎの中で、少女は目覚めのくちづけを乞う。喜びをくださいと。 ナルマイナ。大丈夫、心配しないで。 少年は、ロシア語
「笑わせないで。一連の事件って、それがすべてじゃないでしょ? 他にも殺されかけた人や殺された人がいるのに、東金円と小堂を殺したのは私です、で推理を終わらせるの?」 「貴女は人を挑発させて逆上させるのが好きみたいね。逆に自分が追い詰められていると理解して、あえてそのような行動を取っているのかしら?」 夕凪の嘲笑を、鈴代が冷静に遮る。「それとも、これから話されることをここにいる人間に知られたくないのかしら?」 尚も鈴代は夕凪を糾弾する。人形のような美貌を持つ少女の、無表情な横顔に、豊は寒気を覚える。 ……怒ってるんだ。 鈴代の怒りは、ぴりぴりしたものではない。どこまでも冷え切った冬の海のような蒼さが滲み出ている。熱しやすい豊とは異なる、怒りの表現手段だ。「まさか。そんなわけ、ないわよ。まだまだ面白い物語を紡いでくれそうね、少年探偵さん」 凍りついた笑顔で、夕凪は上城に声をかける。黙って二人のやりとりを見ていた上城は声を上げずに顎をずらす。ずらした先にいるのは、鈴代夕起久。視線が、交錯する。「じゃあ、本当のことを教えていただきましょうか……誰によって毒を刺されたかを知っていて黙っていた、財閥当主に」 突き刺さるような視線が、一斉に傾く。 夕起久は、上城を睨むように見上げ、信じられないという表情で静かに聞く。「何が言いたいのかい」 「殺人未遂事件について、改めてお聞きしようとしているだけです」 上城はきっぱり告げる。「犯人が使ったのはカサゴ毒。ハブ毒の何倍も毒性があるが、致死性は低い。犯人はなぜ致死性の低い毒をわざと選んだのか」 カサゴを飼育していた甥の賢季が真っ先に疑われた。しかも、彼の部屋で緑子が絞殺されている。まるで賢季を陥れるためにカサゴを選んだかのように。「あなたが毒にやられた時、現場にいたのは鈴代と緑子、そして夕凪だ。更に限定すると、当主の傍に近づけたのは召使である緑子と夕凪の二人」 召使は各々マスターキーを手渡されている。事件前夜、大学の研究室に寝泊りしていた賢季の部屋に忍び込んでカサゴを盗むことなど造作ないことだ。「二人のうちのどちらかが不意に接触していることくらい、また、刺された痛みが発生した場所からすぐにわかると思うのです……たとえすぐに意識を失ってしまったとしても」 病院に運ばれて意識を取り戻した夕起久
「んじゃ、一連の事件の流れから説明するか。十五年前、現財閥当主の妻、紗枝が精神的に追い詰められて心中未遂を起こした。その理由はたぶん、翠子の娘の父親が夕起久だったことを知ってしまったからだろう。とまぁ、ここまでは鈴代邸で暮らす人間なら誰もが知っている、そして隠匿している事実だ」 きょとんとした表情でいるのは豊だけで、あとの人間は口を真一文字にきつく結んでいる。小松がその滑稽な光景を見て頬を緩ませているのを、氏家が睨みつけている。「翠子は当時、スズシロ……泉観、美弦、そして自分の娘の夕凪、三人の赤子の世話をしていた。事件当日、翠子は泉観がぐずるからとぐっすり眠っている美弦を夕凪のベビーベッドで眠らせて、夕凪を連れて外へ出たんだろう。事件後に死んだのは夕凪だと周囲に信じ込ませているところからして、すりかえ自体、意図的なものかそうでないのかよくわからないけど、彼女が紗枝から娘を引き離すためにそう言い切った可能性は高いな」 そして夕凪……美弦と呼ばれるようになった翠子の娘は殺された本物の美弦の母親、美琴に養われるようになる。 翠子は、現財閥当主との不貞を近淡海家に糾弾され、離縁させられ天涯孤独の身となる。 しかし、唯一の味方がいた。「それが、小堂」 彼はたとえ不貞の子であろうが、大切な主人の後継ぎ候補であることに違いはないと、翠子と随時連絡を取りつづけ、夕凪の面倒を自ら買っていたのだ。 小堂と美琴の間で金銭のやりとりがされていたことから、美琴は美弦が夕凪であることを知っていたと考えられる。知っていた上で、美琴は美弦を育てたのだろう、彼女が次期財閥当主として権力を持つ可能性が少なからず存在していることを知っていたから、小堂から二人で暮らすには充分すぎるほどの金銭を甘受していたのだ。 もしかしたら、そのことすら翠子が手配したのかもしれない。「まぁ、ここまでが今回の事件の背景になる部分……冬将軍に該当するのかな」 翠子は今の事件には直接関わっていない。彼女はただ、知らず知らずのうちに冬将軍として殺人者を作りだしていただけ。紗枝の妄言が生み出した言葉にしては、リアリティがあるなと平井は改めて頷
魔法の言葉を教えよう。小さな子供にそのような戯言を口ずさんだのは、北の奇術師。 * * * 「……ダ。ミェニャー、ザヴート」 私の名前は。「ユウナギ」 夕凪。夕陽の沈む静かな凪いだ海の情景。 美弦は流暢なロシア語で応答する。 何を言っているのか平井には理解できない。ただ、彼女が遠藤美弦ではなく、遠藤夕凪という戸籍を持つ少女であることは調査済みだ。彼女も抵抗しても無駄だと知っているのだろう、だから上城に挑むような態度で応戦しているのだろう。 周囲の人物の顔色を窺う。驚いた顔をしているのはずっと自分と妾の娘だと思っていた明起久とその妻玉貴、そして房江。それから円を殺したのは彼女なの? どうして? と信じられない表情で唇を噛み締めている豊。 現財閥当主の顔色は、まるで幽霊を見てしまったかのように青い。妻が半乱狂になって殺してしまった翠子の娘が、美弦という名を騙って、正妻の娘の泉観に濡れ衣を着せるような殺人を犯していたのだから当然の反応だろう。 泉観と賢季は無表情でことの成り行きを見守っている。もしかしたら気づいていたのかもしれない。美弦が夕凪であることに。「どうして? って、聞いた方がいいのかしら?」 少女にしては、若干低いハスキーボイス。事情聴取の時に見せたおどおどした態度とは裏腹に、すっきりしたような様子で、美弦、いや、夕凪は嘲笑を浮かべ、聞き返す。 上城は自分を睥睨する少女に、冷静に応える。「ええ。でも、いつかは必ずばれる嘘だと貴女もわかっていたみたいですね」 「むしろ、それが真実だと思いたかったのかもしれない」 ちぐはぐなやりとり。豊は美弦が何を言っているのか理解できずにいる。 ……美弦が夕凪で彼女が円を殺した? 金木犀の花言葉は真実。上城は確かに真実の扉を開いたのだろう、最初の一枚を。「戸籍を調べられるとは思っていなかった?」 「美弦自体、疑われていると思わなかったから。常におどおどして、人なんか殺せませんって態度を見せていたし」